医療の情報と患者の知識(2)

西だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                   
今日は昨日の続きで、記事の後半部分を紹介しよう。
          
       
●日本人がカルテのすべてを見る日~医師と患者の関係は変わりつつある
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51627
         
▼医師の懸念は杞憂だった
       
それではOPEN NOTESに参加した医師の反応はどうだったのか?
プロジェクトの開始前、懸念を示していたのは患者でなく医師であった。自分の経過記録を患者が読むことで、患者が必要以上に不安になったり、恐れを感じたりするのではないか、カルテ更新のアラートが患者に行くことで問い合わせが増え、ただでさえ多い仕事がもっと増えるのではないか。医師はこのような懸念を抱えていた。
しかし1年後、このような医師の懸念は杞憂であったことが明らかになる。
たとえばボストンとペンシルバニアの病院では参加者の8割、シアトルの病院では約半数の患者が最低1回自分のカルテを開いていたが、それによる問い合わせ件数の増加も、メール数の増加も見られなかった。
加えて、参加した医師のうちの3割は、カルテが開かれたかどうかも認識しておらず、プロジェクト後のグループインタビューでは、カルテの開示がどれだけ自分の仕事に影響を与えたかではなく、どれだけ「与えなかった」かが驚きと共に語られた。
つまり患者の多くは自分のカルテを開いていたが、だからといってそのことを医師に告げたわけでも、対話の仕方を変えたわけでもなく、これまで通りのやり方で診察を受けていたのである。
患者の不安をあおるという、もう一つの懸念についても結果は同様であった。そのような不安を感じた患者もいたが、それは3つの病院で1%‐8%という限定的なものであり、こちらも医師の事前の予想とは異なる形となった。
OPEN NOTESの創始者であるハーバード大学のTom DelbancoとJen Walkerは、医師が自分についてどのような見立てをしているのかを知ることより、それが自分に明かされず、医師が何を考えているかわからないことの方が、患者の不安や恐怖をあおるのではないかと述べる。
もちろんOPEN NOTEは完璧なプロジェクトではなく、少数ではあるがカルテを読むことで不安になった参加者、セキュリティ面に不安を感じた参加者、患者が見ることを意識し経過記録を書いたために余計に時間がかかったという医師もいた。
しかしDelbancoと Walkerは、そのようなネガティブな側面を踏まえてもなお、OPEN NOTEによって生み出される利益は不利益をはるかに上回ると断言する。
情報を隠さずに共有することは、医師が患者を自立した一人の人間としてみなしていることのサインとなる。そうすることで、患者の医療者への信頼が高まり、結果良好な医師―患者関係が築かれてゆくからだ。
OPEN NOTESが医師と患者の双方にとって有意義であることは、その利用人数にすでに現れている。2010年に2万人の利用者から始まったOPEN NOTESは、2012年には120万人の利用者にまで拡大し、なんと2016年には1000万人を突破した。
おとぎ話から始まったストーリーは米国で現実のものとなり、いまもなお広がりを見せている。
DelbancoとWalkerは、患者が情報を受動的に閲覧するのではなく、自らが書き込む主体となれるOUR NOTESというプロジェクトを現在企画中であるという。
        
▼世界に広がる患者のためのテクノロジー
         
OPEN NOTESが生まれるきっかけとなったザルツブルグ・グローバル・セミナーから16年後の2017年3月。ザルツブルグで再びセミナーが開かれ、11か国から50名の参加者が集まり、OPEN NOTESをはじめとする、テクノロジーを用いた患者への情報公開のあり方がいくつも共有された。
まず圧巻だったのはスウェーデンの試みである。スウェーデン政府は2012年より、My Healthcare Contactsというサービスを開始し、これにより、すべての国民が自分の医療情報にオンラインでアクセスできるようになった。
閲覧できる情報は、予約、処方、診断、経過記録、検査結果、自分の情報にアクセスした専門家の氏名であり、個々人は必要に応じて、家族などの重要な他者に自分の情報を開示する権利を与えることができる。また返信の保証はないというアラートが表示されるものの、そこから医療者に向けた質問をすることも可能になった。
このサービスが展開される際、もっとも強い懸念を示したのは、がんの治療に関わる医師であったという。OPEN NOTESと同様に、「患者の過剰な不安をあおるのではないか」、「問い合わせが増えるのでは」という懸念があがったのだ。しかしサービス開始後の調査で、このような事態には至らなかったことが判明した。
似たような試みはカナダでも始まっている。カナダでは2015年にmyUHNというポータルサイトがトロントにある7つのクリニックで試験的に開始された。規模は小さいものの、患者が使いやすさを確かめるという形でシステム構築に参加しているがmyUHNの特徴である。
myUHNでは、診断、処方、予約情報、検査結果といった情報に加え、患者の精神状態に関する医師のコメント、病理検査の結果といった、精神疾患やがんの患者にとってはかなり繊細なりうる情報へもアクセスが可能となっている。
利用者の評価は上々であり97%の患者が医療者とコミュニケーションがしやすくなった、98%の患者が治療に関する決定をしやすくなったと答えており、ひるがえって検査結果や予約、診療記録に関する問い合わせが63%減少したという。そしてここでも情報公開による患者への心理的な悪影響は見られなかった。
この結果をもとにmyUHNは、トロントのUniversity Health Networkに属する施設の患者25万人に2017年1月から一般公開された。始まってまだ半年に満たないがすでに1万7500人の患者がアクセスをしているという。
          
▼パターナリズムから共同意思決定へ
          
相手のことを思ってある情報を隠すというのは、大人と子どもの関係性においてよく見られる行為である。刺激が強すぎる、悪影響があるといった理由で大人は子どもに情報を隠す。
これはいっけん子どものためのようにも思えるが、大人が都合の悪い情報、説明のしづらい情報を体よく隠すための言い訳に使われる場合があることもこの媒体の読者であれば周知の事実であろう。
大人と子どもに見られるような情報共有のあり方が、医師と患者の間にもあったといえる。
がんの告知を絶対に本人にしない時代があったように、患者は守られるべき弱い存在であり、その弱き存在を守らねばならないのが医師である。したがって患者を不安にさせるような情報は見せるべきではない――。
パターナリズムと呼ばれるこのような医師―患者関係は、長きにわたって医療の常識であった。しかし現在この常識は覆されつつあり、パターナリズムの代わり現れたのが、医師と患者がともに未来を決めるという「共同意思決定」という関係のあり方だ。
OPEN NOTESも、My Healthcare ContactsもmyUHNもその流れの中にあるテクノロジーといえるだろう。
         
▼日本における医療情報の開示
         
患者がオンラインで医療情報にアクセスできるシステムは、日本でも少ないながら存在しており、京都府の「まいこネット」、宮崎県の「はにわネット」はその中の代表的なものである。
この2つのポータルサイトでは、これまでの診療歴、処方に加えて、検査結果の履歴もオンラインで確認することができるが、本稿で紹介した海外のサイトと比べると、患者への情報開示は限定的であり、診断名と経過記録への閲覧は制限されている。
非開示になっている主な原因は医師側の抵抗感にあるようだ。たとえば2017年5月に開かれた電子カルテの学術会議でOPEN NOTESを紹介した際には、それによる訴訟リスク増加が医師側から懸念として挙げられている。
訴訟において医療者側が十分に守られているとは言い難い日本社会において、このような不安が医師側から出されることはある意味当然のことと言えるだろう。
しかしこのようなプロジェクトに共通する目的は、患者による医療者の監視強化ではなく、医療者と患者の信頼関係の強化であることをいま一度強調したい。そしてその上で、このような医療情報の開示は、医療者だけでなく、私たち患者側への問いかけでもあることを考えたい。
なぜならこれらプロジェクトで目指されているのは、病気のことを医師任せ、病院任せにするのではなく、患者側も医療者と共に考え、歩んでゆくことにあるからだ。
私が病院で患者さんにインタビューをすると「私はまな板の上の鯉ですから」となぜか誇らしげに言い放つ人がいる。しかし「鯉」のままではカルテも読めず、自立した人間同士の信頼も気付けまい。
その一方で、食べることが唯一の楽しみであった入院中の高齢男性が、食事をのどに詰まらせ不幸にも亡くなった際、そばで看ていた家族は「食べることが唯一の楽しみで、口から食べられなくなることは何よりの苦しみであったはず」と彼の死を納得する一方で、彼と不和であった親族の一人が、彼の死は病院の過失であると警察に電話をし、病院が何百万のもの示談金を払ったという話も聞く。
こんな事件を経験した医療者に、患者とその家族を信頼しろというのは無理があるだろう。
役割に応じたふるまいを美徳とし、病気のことは医師に、政治のことは政治家に、部外者は口を出すな、といった文化のある日本、しかしそれが外れたかと思えば極端に逆ブレすることのある日本において、OPEN NOTESのような情報共有は可能だろうか。
テクノロジーを用いた情報共有によって問われるのは、欧米輸入の個人や権利といった概念を私たちの社会にどのように根付かせてゆくかという、私たちの価値観そのもといえる。
         
       
日本における医師と患者の関係は、記事中にある

がんの告知を絶対に本人にしない時代があったように、患者は守られるべき弱い存在であり、その弱き存在を守らねばならないのが医師である。したがって患者を不安にさせるような情報は見せるべきではない――。
パターナリズムと呼ばれるこのような医師―患者関係は、長きにわたって医療の常識であった。

という部分だろう。
Webの発達とともに、情報の開示が個人の権利であることが周知されつつある現在、こうした関係は希薄なものとなりつつあるのは確かだろう。
しかし、ここで個人の「情報を知る権利」を行使して得られる情報を「正しく認識」できるかは、個人の知識がどれだけ正しいか、という部分も必要になることを忘れてはならない。
医療の知識があれば、一つの事象からカルテに書かれた内容が5までを表示し、その先に10までの情報が隠れていることを知ることができても、その知識が乏しいと、表示されている5の情報までしか気づかないことになる。そして5の情報で自己判断をすること、誤った判断になることもあり得る。

今後、こうした医療情報がWeb上で開示される、という状況は普遍化されてくるのかもしれない。
しかし、その情報を「活かす」には、正しく判断できる知識が必要であること、その知識が乏しい時は自己判断せずに、情報を判断できる第三者に協力を求めることも大切になるだろう。
ゆくゆく訪れるであろう、医療情報が開示される時代が近づいてきた時、こうした情報に対する「判断」が大切になってくることは覚えておいて欲しいと思う。

                         
おまけ★★★★博士のつぶやき

病気の治療は医師任せ、という風潮は、昔から日本人にはあったようじゃ。それがこうした情報を開示されたときには、病気の治療は個人の判断にゆだねられる部分も出てくるじゃろう。
例えば、その時点で受けている治療に対して疑問を抱いた場合、他の治療を選択することも自己判断で可能になる。しかし、他の治療を選択することが「正解」なのかどうか、という問題も生じてくるのじゃ。
病気と症状の違いもそうじゃが、医療関係者が「前提」としている知識を患者は得ていないこともあることを忘れてはならんじゃろうの。